2月3日

ワークショップ、なんとか終わりましたが。…が、二日間ほどろくに寝ないで準備して臨んだ当日、終了後に打ち上げでビールとワインと焼酎のちゃんぽんをした挙げ句終電を逃してオールというスケジュールを強行してしまい、はっきり言って壊れてました(笑)。おまけに次の日は二日酔いぎみでチューターの仕事に出かけましたし。いやはや、もう若くないんだしこれはやり過ぎでしたよ。というわけでこれからもまだまだ忙しいしゆっくりできそうにもないのですが、とりあえず終わったというご報告まで。二次会が一番フラフラだったかもな。おまけに二次会のお店の中で、お気に入りのジェーンのベレー帽を紛失しました。あの黒のボンボンベレー、一番愛用していたのに…。かなりしょげています。後でお店に電話してみるけど、たぶん見つからない予感。

あ、そういえば留守にしている間にいつの間にかカウンターが6ケタに達していた模様。最近更新すらまともにできていないのに、ありがとうございます。もうしばらく修羅場が続きそうなのですが、落ち着いたらたくさん更新したいなと思っています。


2月4日

今日は比較的のんびりできたので、日がなゆっくりメールを書いていました。年末から溜めに溜めていたメールをようやく返信しています。こんなに遅くなってしまって、本当に申し訳ないです。他にも溜まっていることが山ほどあるので、一つ一つ片付けていきたいものです。

最近またルピシアでお茶をよく買っています。他のお店の茶葉も試したいのだけど、普段よく行く場所にルピシアがあるからついついここで済ませがち。最近は紅茶ばかりではなく、また中国茶熱も復活ぎみなのでぽつぽつとこちら関係も買っています。といっても茶壷で本格的に…というところまでは戻らなくて、急須でざっくり淹れてます。今はさっぱりした青茶を飲みたい気分。お茶がらみで言えば、去年の暮れ頃にimaneでホウロウのティーポットとティーマグを買いました。imaneのネットショップは以前からちょくちょく覗いていたのですがなかなか買うまでは至らなくて、でも密かに気になっていたシリーズが廃盤と知って慌てて注文したしたという次第です。なんで購入に踏み切れなかったのかというと、imaneの商品は若干カントリーくさいかなあと思ってそれがネックになっていたのです。私は相当少女趣味の持ち主ですが、実はカントリーって苦手なので。ですが私が購入したシリーズはほどよく控えめで、かわいらしいし使いやすいし、やっぱり買ってよかったです。この手のかわいらしさは私の本領ではないので、たまにぽつぽつアイテムを増やすという感じで買い続けることになりそうです。基本的に金属や冷たい質感が好きな人なので、ホウロウという素材は結構好きかも。今度はキャニスターが欲しいな。

うん、ようやく少し元気になってきたかも。明日はオラファー・エリアソンの展覧会の雑感を書くぞ。


2月5日

なんだかフラフラする…。最近無理をしすぎていたツケなのか、体がガタガタです。行こうと思ってチケを買っていた人格ラヂオのライヴも結局パス。チッタでの人格、見逃したよ…。その分引きこもって部屋でのろのろと片付けものをしたり作業をしたりしていました。というわけで今日は頭が働かないので手抜き日記で。レビューは体調が回復してから。

吉田篤弘『百鼠』(筑摩書房)を読了。うーん、この人の本を読んで今まで嫌いと思ったことはないのだけど、『百鼠』かなり苦手。これはクラフト・エヴィング商會の世界ではなくて、日本文学の世界なのかもね。ストーリーや世界が妙に生々しくて、それがどうにも好きになれない。もう少し体調のいい時に「百鼠」を読み直せば少しは面白く感じるかもしれないけど。


2月6日

最近全然日記を書くことができない。ワークショップは終わったけどまだまだ忙しさは続くし、体調もあまりよろしくないし、頭を悩ませていることは山ほどあるし。自分の頭の中にある漠然としたものを言葉でアウトプットするのが私はとても苦手で、それが致命的なウィークポイントだからこういう場所でも意識的に訓練していかなければと思ってはいるのだけど、そういったことを行う気力も現在はなく。なんとなく濁流に巻き込まれてふらふらと流されていっているような感覚があります。本当にこれでいいのだろうか。とりあえず微妙に風邪気味というのがとても怖いので、体調の回復につとめたいと思っています。体調を崩して寝込んでいる暇なんてありません。うっすらと暗い予感に包まれつつ、毎日が過ぎていきます。

そういえば、ビデオアートのことを調べていた時にナム・ジュン・パイクがつい最近亡くなったことを知りました。

体調が悪いので普段使い慣れているフレグランスでさえ酔ってしまいがちな今日この頃ですが、今のお気に入りはクリスチャン・ディオールの「ミス・ディオール シェリー」。私の手持ちのフレグランスの中では珍しく華やかな香り。あとは定番のオード・シャルロット(アニック)とか。これはいつつけても落ち着く…。最近、ナルシソ・ロドリゲスの「フォー・ハー」をボトルで買いました。どちらかというとノスタルジックな香りを好みがちな私だけど、これは現代的かな。こう寒い時期より、もう少し暖かくなってからの方が出番が増えそうです。レビューを読むと官能的と書かれているのが目立つけど、少なくともEDTだと私はそういう印象はあまり受けないのだけど。少し冷たさのあるエジプシャンムスクの香りが好き。たぶんこの「冷たい」というのが私の好みのポイントなんだろうな。目に見えないものを感覚的に享受して、それをさらに感覚的に表現するだけ。どうせ私には理論的思考のかけらもありませんから。なんて、疲れるとどうにも自虐的になりますね。


2月7日

この頃微妙にFilemakerに深入りをしている。といっても私自身はまだごくごく初歩の使い方しかできないけど。今日はファイルメーカー2を見せてもらう機会があったのだが、大変興味深かった。確かこのバージョンは89年頃のもの。今の目から見ると、あのなんとも言えない素朴でキュートなインターフェイスがたまらない。もうすっかりOSXに慣れきってしまっているけど、今でも9以前のインターフェイスを見ると胸がぎゅっと締め付けられるような気分になるのはなぜなのだろう。ノスタルジー?Filemakerはこれからじゃんじゃん使えるようになりたいので、詳しい方と接触を持つことができたのは何よりです。ソフトの習得は人から教えてもらうのが一番わかりやすいし手っ取り早いと思う。私自身はフォトショもイラレもDreamweaverもすべて独学で一人きり本を見ながらコツコツと何年もかけて学習したのだけど、これは本当に効率が悪かったな、と。でも一人きりで頑張って覚えただけマシなのかも。こういう部分に関してだけは粘り強い。

相変わらず寒いし体調もいまいちだし、道を歩いていてもフラフラぎみ。今週は(今週も)予定がびっしり詰まっているからお出かけも無理そう。でも11日のジェーン本店のリニューアルオープンには春物の引き取りがてら出かけようかな、と。そういえば私、ドロワーズも予約していたんです。ロリじゃない私がドロワーズを着るのかという突っ込みはともかく、これも楽しみなアイテムです。エマなどのヴィクトリアン系を読んで、スカートからちらりと見えるペチコートやドロワーズってかわいいよなーと思ってうっかり予約したのですが、はてさて着こなせるのか。


2月8日

書店で福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波文庫)とエドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー)、『ノヴァーリス作品集 第1巻』(ちくま文庫)を購入。ノヴァーリスが文庫になったのが本当にうれしい。沖積舎から出ている全集は3巻中1冊しか買ってなくて、残りもそのうち揃えないと…と思いつつ買いそびれていたところに文庫化。最近、ブルーノ・シュルツをはじめ高くて単行本を買えなかった人たちの本が手軽な形で出版されて本当にうれしい。これを機会にみっちり再読しよう。いざ、ノヴァーリスの鉱脈へ。


2月10日

体調があまりよくないせいか、若干落ちぎみ。書店でサイードの『オリエンタリズム』(上)、あとは『思想史のなかの科学』を購入。部屋で書上奈朋子を聴きながら岡崎京子の『ヘルタースケルター』を読む。アマゾンで二階堂奥歯『八本脚の蝶』を注文。明日くらいには届くかな。


2月11日

今日も書店へ。天野郁夫『教育と選抜の社会史』(ちくま学芸文庫)、ウィリアム・モリス『理想の書物』(ちくま学芸文庫)、内井惣七『空間の謎・時間の謎 宇宙の始まりに迫る物理学と哲学』(中公新書)、シオドア・スタジョーン『夢みる宝石』(ハヤカワ文庫)を購入。最近のちくま学芸文庫は凄まじく私のツボを突いてくる。素晴らしい。以前から好きだったけど、最近はますます愛が高まっている。

今の私は憑き物が落ちたように本を買っている。正直に告白すれば、ここ数年は本屋へ行くことも限りなく少なく、本も滅多に買わなかった。ただもう書店にいるだけで憂鬱になり、活字を見るのも実は嫌だったのだ。私は本を読まなかった。読もうという気力すら起きず、どんどん自分の中が朽ち果てていくのを感じつつ、それでもその崩壊は止められなかった。原因はよくわからない。でもとにかく、本の世界から離れていた。その空白の3年ほどの間に私はなんとか大学を卒業し研究生になり大学院へ入学したのだから、社会的に見ればそう悪い期間ではなかったのだろう。だがその実私の心は絶望的に荒れ果て、どうにもやりきれない虚無感と空っぽの頭を持て余し、こんな腑抜けになった自分自身が歯痒くて、しかしながら憂鬱から抜け出すことができなくて、無気力の海の中で溺れてもがいていたのだ。本当に、ずっとずっと長い間自分のことが歯痒かった。それが最近、また本屋にいることができるようになった。新刊のことが気になり出した。本の手触りが愛しく思えてきた。本を買いたくなった。そして、私はまた以前のように本を買うことができるようになった。思えば長い暗闇だった。私はようやく、無気力から回復できたのかもしれない。数年の心の闇で、以前あった知識も思考も何もかもが空っぽだ。たくさんのものを失ってしまった。でも、それはまた築き上げていけばいいのだろう。空っぽの容器として取り戻した自分。よくもまあこんなに長い間腑抜けになっていたものだ。回復した今なら、自分にそう毒づける。私は昔の自分をまだ少し覚えている。本の世界を、物語の世界を、知識の世界を、どれほど愛していたのか。またゼロからやり直しだ。思考も感覚も鈍っているけれど、あの美しい世界をどうかもう一度私に見せてください。私も、あなたに向かって歩いていきますから。

ノヴァーリス作品集の「サイスの弟子たち」を読む。まあこれは、助走のようなものか。私にとってはそこまで愛着のない作品…と思っていたのだけど、解題をぱらりと見てみたらこの小説にある多声的な構造やイシス神話についてなど、面白い要素を備えている小説であることが指摘されていてなるほどなと思う。そのうちまた、読み直して考えてみよう。

土曜の夜に部屋に引きこもって「サタデー・ナイト・フィーバー」を鑑賞。もっと馬鹿映画かと思っていたけど、どうにもならない若者の焦燥感が溢れるヒリヒリする作品だった。トラボルタのあの有名すぎるダンスを笑おうと思って借りてきたんだけど、そういう意味では笑えなかったよ…。でもまあ、見てよかったです。


2月12日

部屋に籠ってパワポでプレゼン資料作り。中身が大事なのに、外観のデザインから取り掛かってそれがとりあえず納得いかないと中身が全く進められないという自分は絶対どこか間違っていると思う…。それにしても院に入るまでワード・エクセル・パワポが使えないという馬鹿丸出しな状態だったけど、最近はようやくなんとか人並みに使えるようになりました。Officeは今でも嫌いだけどさ。

伊東俊太郎・広重徹・村上陽一郎『思想史のなかの科学』(平凡社ライブラリー)を読了。頭の中をリセットというところか。科学史をテーマに取り入れないにせよ、この領域は自分のルーツという感じがするからちゃんと復習したい。

あとは幸村誠『プラネテス』全4巻を読了。西暦2075年頃を舞台にした漫画。宇宙空間でデブリ(宇宙ゴミ)を拾う人たちを中心に、人類と宇宙の関わりを描いている。非常によい作品だしとても気に入ったが、後半になるにつれてどんどん内容が重くなっていくのが少ししんどかった。最初からシリアスな作品ではあったが、最初の1・2巻はまだユーモアがあり、それが適度な風通しのよさを作ってくれて楽しんで読めたのだが。『思想史のなかの科学』の内容とも重なるが、科学は科学者の興味関心から生じる個人的な知的探究から社会や産業そして政治と結びつくものへと変質を遂げた(その時期は産業革命以降と言えるだろうが、明確には第一次世界大戦後ぐらいであろう。このあたりは少し意見がわかれるかもしれない)。宇宙はロマンであると同時に、非常に政治的で生臭い場所でもある。そういった両面性がこの漫画には描かれており、それがこの作品をより骨太なものにしている。私個人はどちらかというと宇宙を夢想の対象としていてそういった社会性を見落としがちなので、こういう作品を読むとはっとさせられる。それでもやはり、思うのだ。宇宙の最前へ、フロンティアへ進出していく人たちがいる一方で、私は大気の底から宇宙(そら)を見上げて夢を見る人なのだと。夢想家は、役立たずなのだろうか。


2月14日

2月14日。近所のおいしい洋菓子店でチョコレートケーキを買い、稲垣足穂の「チョコレット」を再読しつついただく。

末の妹が某私大に合格。おめでとう。結局これで、三姉妹全員が東京へ出てくることに。


2月15日

今、私の手元には一冊の本がある。二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社)。2001年6月13日から2003年4月26日までのウェブ日記を、一冊の本にまとめたものである。1977年生まれの二階堂奥歯は編集者、そして「幻想文学」のレビュアーだった。日記の最後の日付である2003年4月26日に飛び降り自殺をした。享年25歳。今も、ウェブ上に日記が遺されている。

私はご本人とは全く面識はなかったが幻想文学関係で名前は知っていたし、またかなり初期から日記の読者であった。結果的に、リアルタイムで最期の日まで日記「八本脚の蝶」を読み続けた。私がそもそも彼女の日記を読み始めたのは同世代の女性で書物や物語を愛する人に対する興味関心であったのだが、読んでみると行間から読み取ることのできる明晰な思考や肥大した自意識を綺麗に昇華した文章がとても気に入った。と同時に、文章で人を惹き付けるというのはとてもあやういことだと思った。それがウェブという空間であれば、なおのこと。

それはともかく、私はずっと日記を読み続けた。そしてだんだんと不協和音が目立ちはじめ、自殺未遂の経過やら錯乱ぎみな言葉がモニタに並ぶのを不安な気持ちで眺めつつ、日記を読み続けた。ここに書かれているのが事実なのかもしくは妄想なのか、私にはわからなかった。もちろん日記を読み始めた最初の時点から、文章の背後に潜む病んだ感覚は明白に嗅ぎ取っていたけれど。それでもこれは妄想なのかもしれない、そう思っていた。しかし結局4月26日に自殺したというニュースを知り、ここに書かれていたことが妄想でもなんでもなく事実であることを理解したのである。

本にまとめられた『八本脚の蝶』は日記の全文の他、生前親しかったり関わりのあった人たちの回想、そして日記にも出てくる本やオブジェ・ぬいぐるみなどの写真が収録されている。こうして改めて手に取ってめくってみて、彼女の文章に惹かれはするが、しかしこの世界に囚われることはないだろう実感した。私の感想は冷たいかもしれない。こうした世界から離れていようと意識的に距離を取っている部分は確かに認めるが、しかし同時に大きな断絶があるのは間違いない。私はこれからも生き続けていくし、物語や美しいものを愛してゆくし、大半は平凡な日常/たまに澄明な思考の軌跡である日記をこれからも書き続けるだろう。インターネットやテクストは幻想を生み出しはするけれど、私がそれに飲み込まれたり身を投じることは決してないだろう。

私は時々この本を手に取り、読み返す。そして、そっと本棚の中へ戻す。記憶の中に沈めて、私はこれからも凡庸に生きていく。『八本脚の蝶』について語ることはもうないと思う。しかしこうして一言日記に残しておきたかった。美しく呪われた、一冊の書物について。この本は、読者の中にあらたなミクロコスモスを形成するであろう。最後に、自殺したことを知った日には言えなかったけど。というかそもそも日記で二階堂奥歯のことを取り上げるのが初めてなのだけど。美しかった八本脚の蝶に、哀悼を捧げます。

 

 

 

 

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